脇町南町 徳島 



2006年  
水彩 
120x165mm
関西経済連合会発行の広報誌「経済人」の2015年10月号は阿波徳島の脇町で描いたスケッチで構成した。重要伝統的建造物群保存地区に選定された南町通は道の両側に商家が軒を連ねる。それも立派な構えの家ばかり。商売で成功したら、本来火事での類焼除けの壁であった卯建を屋根に設けることがこのあたりの人たちの誇りであったらしく、競い合って、凝った卯建をあげたために、独特の景観の家並みが形成された。描きながら、いつまでたってもうだつが上がらないのを羞じるのみ。
2016/09/09記
■関西経済連発行広報誌「経済人」2015年10月号表紙に掲載。

Tomo-no-Ura, Fukuyama,
Hiroshima pr


鞆の家並み
福山市鞆の浦
 
2007年  
水彩 
120x165mm
この地を詠んだ歌が万葉集にも収められているほど古くから知られた浦。瀬戸内海は潮の満ち引きで西と東の水道から太平洋の水が入り込み、ちょうど鞆のあたりで出会い分かれる。昔の航路は天候もさることながら、この潮の流れを利用しなければならず、鞆は潮待ちの港として、ここを行き交う人々が立ち寄ったところ。朝鮮より東で一番風光明媚なところという意味の「日東第一形勝」と賞賛した朝鮮通信使や、幕末に都を逃れ西へ向かった七卿落ちの公卿、いろは丸の坂本龍馬など、歴史の舞台としても興味深い。そして、常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所と中世の港の設備5点セットが、今も残っている全国で唯一の港。描くところはいくらでもある。
このほど、福山市のギャラリーで作品を展示していただくことになった。先日、講座でいつも一緒に描いている方たちと鞆の浦にも出かけ、いくつかスケッチもしたが、それらも展示したいと思っている。
2015/07/03記


YASUDA YASUYUKI

五條新町 
栗山家住宅
奈良
       




2014年 
水彩 
120x165o 

関西経済連合会発行の広報誌「経済人」2015年2月号は奈良の五條市のスケッチ。五條は江戸時代の初め、藩主松倉重政が整備した城下町、新町通りには豪壮な商家が軒を連ねる。重要文化財に指定されている栗山家の住宅は屋根の煙出しが妻面を正面に向けている。1607年に建てられ、400年以上の歴史をもつ民家。建築年代が判明している民家としては日本最古だそうだ。ひっそりと人の気配がないのは、このごろあちこちの町を訪ねて感じる共通の感想。
2015/12/10記

■関西経済連合会発行広報誌
「経済人」2015年2月号表紙に掲載


水彩画スケッチ紀行

安田泰幸アート&スケッチ

伝統の町並み                                             03      

五條新町通 
造酒屋山本本家
奈良
       





2002年 
水彩 
120x165o 

関西経済連合会発行の広報誌「経済人」2015年2月号は奈良の五條市のスケッチ。
五條は江戸時代の初め、松倉重政が整備した城下町。重政は商人を保護したため、商業が発達し、新町通りには豪壮な商家が軒を連ねる。現在は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。山本本家は宝永年間創業、280年の老舗。清酒「松の友」や柿ワインの醸造元。
2015/12/08記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2015年2月号表紙に掲載


Kamishichiken, Kyoto.



京都 上七軒 


水彩  
165x240 mm 
昨年11月の朝日カルチャーYY絵はがきスケッチ講座は京都の上七軒。
室町時代に北野天満宮が再建されたときに残った材木で七軒の茶屋が建てられたのが始まりとされ、豊臣秀吉の北野大茶会で団子を供して喜ばれたことから、営業がゆるされ、花街として、西陣と結びつき、今日まで続いてきた。店の前につるされる団子の紋の提灯はその名残りとか。集合前に、上七軒歌舞練場にある「茶ろん上七軒」で、洋食ランチで腹ごしらえして、待ち合わせ場所の北野天満宮へ。いちょうがきれいに色づいていた。天気もよく、受講者の方たちと、表の通りの家並みや、路地を入ったお茶屋さんの家並みなど、一通り歩いて、描く場所を決めた。
2015/08/01記

旧東海道関宿 
東追分 
亀山
 


2014年  
水彩 
 120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。

宿場の入口を追分という。東追分(ひがしのおいわけ)。ここから西追分に向かって1.8kmに渡って宿場の家並みが続く。車や電車のなかった時代、天候に左右され、身の危険を感じながら旅をした往時の人びとがやっと宿場にたどり着いた、安堵と開放感が偲ばれる。左の鳥居は、伊勢神宮に向かう伊勢別街道の入口。ちょうど関宿が2つの街道の分岐点になっている。伊勢神宮で20年に一度行なわれる式年遷宮の際、宇治橋の鳥居も新しくされるが、古い鳥居が関まで運ばれてきて、ここに建てられるという。当時東海道を行き来する旅人はここから伊勢に向かって遥拝したそうだ。  
2015/05/03記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載

 

水彩画スケッチ紀行
伝統の町並み

01 02 03 

美山 茅葺きの里



水彩  
240x3305o

京阪神エルマガジン社から「関西スケッチさんぽ」というムック本発行された。京都・大阪・兵庫・奈良・滋賀の名所を訪ねるスケッチのガイドブック。何人かの水彩画家やイラストレーターの作品とガイドが収録されている。その内、京都2点、大阪3点、兵庫4点、奈良1点、滋賀1点の計11点の作品が掲載された。
美山は、由良川の対岸から集落を見渡した風景。それぞれのスケッチには、スケッチのためのアドバイスも添えた。
2017/04/25記
■京阪神エルマガジン社刊「関西スケッチさんぽ」に所収


脇町茶の子町 
徳島
     



2006年  
水彩 
120x165mm
関西経済連合会発行の広報誌「経済人」の昨年2015年10月号は阿波徳島の脇町で描いたスケッチで構成した。重要伝統的建造物群保存地区に選定された南町通から枝道を入ったところ。うだつが上がる屋敷の裏側にあたる道。こちらは観光客も少なく、落ち着いたたたずまい。白壁がまぶしい。
2016/09/11記
■関西経済連発行広報誌「経済人」2015年10月号表紙に掲載。


五條 新町通り
奈良
       



2014年 
水彩 
120x165o 

関西経済連合会発行の広報誌「経済人」2015年2月号は奈良の五條市のスケッチ。
五條は江戸時代の初め、藩主松倉重政が整備した城下町、豪壮な商家が軒を連ねる新町通りは紀州街道の宿場町としても栄えた。カメラや絵の道具を持ってこの町を訪れる人が必ずモチーフbにする餅商一ツ橋のある辻。商売を継ぐ方がおられなかったのか、店を閉めておられた。
2015/12/12記
■関西経済連合会発行広報誌
「経済人」2015年2月号表紙に掲載


旧東海道関宿
伊藤本陣のあった
中町の町並み
亀山



2014年  
水彩  
120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
天保年間、関宿には、たくさんの旅籠とは別に、大名や幕府の役人が泊る、本陣が2軒、脇本陣が2軒あった。右の大きな袖看板とのれんの家が、2軒の本陣の一つ伊藤本陣。2階の座敷の張り出し窓が立派。いまは電気屋さん。宿場には、宿場役人が大名行列を出迎えたり、見送ったりする「御馳走場」のあとも残っている。大名や武士がいなくなり、やがて旅も徒歩から鉄道や車に替わり、大いににぎわった町も、すたれていく。住んでいる人たちの生活も時代に押し流されたいへんだったろうに、百数十年前の町の姿をよく伝えられたものだと、連なる古い家の前を歩いていて思った。
2015/05/05記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載


旧東海道関宿
福蔵寺 
亀山
  

2014年  
水彩  
120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。久留米藩の剣道指南役牧藤左衛門は遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。牧の妻は身重であったが、夫の仇を討つため旅に出た。ようやく関宿まで来たときには、行き倒れ同然であった。関の地蔵院の前にあった旅籠山田屋の主人と女将に助けられ、看病され、妻はそこで女の子を産んだ。彼女は間もなく子どもの将来を宿の夫婦に託して亡くなる。女の子は「小万」という名で、元気に育った。やがて小万は育ててくれた宿の夫婦から、両親のことを聞き、女の身ながら、母の志を継ぎ、亡き父の仇討ちをする決心をする。山田屋の主人は、彼女の気持ちを知り、亀山藩家老の加毛寛斎に頼んで、彼女に武芸を習わせた。天明3年、仇が亀山藩に現れることを知った小万は、馬子の姿を装って亀山城大手前の辻で待ち伏せし、ついに本壊をとげることができた。仇討ちによって名を高めた小万だが、その後も山田屋で育ててくれた夫婦に仕え、その後36歳でこの世を去ったという。関宿に残る烈女小万の物語。旧東海道から少し入った福蔵寺には小万の墓がある。2015/04/30記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載

旧東海道関宿 
地蔵院本堂 
亀山
    

2014年  
水彩  
120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。表紙には掲載できなかったが、東海道関宿のランドマーク的存在の地蔵院。奈良時代に流行した天然痘から人々を救うため、行基が地蔵菩薩を安置したのがはじまりという。日本で最も古いお地蔵さんといわれる。俗謡で「関の地蔵さんに振袖着せて、奈良の大仏婿にとる」というのがあるそうで、庶民の発想は大胆で過激でおもしろい。本堂と脇の愛染堂、および鐘楼が重要文化財に指定されている。
205/04/30記
関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載


旧東海道関宿
鶴屋脇本陣
波多野家
亀山
    


2014年  
水彩  
120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
表紙には掲載できなかったが、鶴屋。先にここにアップした俗謡「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」に謳われた旅籠の一つ。今も建物が残っている。脇本陣を務めただけに、2階の大きな虫籠窓や入口横の出格子とその廂屋根の上の立派な千鳥破風。当時の風格を彷彿とさせる。西国大名の重役や幕府の役人、大坂あたりの大店の商人などが、大きな顔をしてのれんをくぐったんだろうな。
205/04/29記

関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年10月号表紙に掲載



旧東海道関宿
旅籠玉屋 
亀山
    


2011年  
水彩  
120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
宿場のほぼ中央にある立派な漆喰壁の玉屋は大旅籠の貫録。江戸天保年間(19世紀中頃)、関の宿には42軒の旅籠があったという。山里の集落にに42のホテルがあったと考えると、たいした賑わいである。俗謡に「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」とある。いま、玉屋は歴史資料館に、会津屋はそば屋になっている。  205/04/26記
関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年10月号表紙に掲載

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脇町 吉田家「佐直」の船着場 
徳島
  



2006年 
水彩 
120x165mm
関西経済連合会発行の広報誌「経済人」の昨年2015年10月号は阿波徳島の脇町で描いたスケッチで構成した。重要伝統的建造物群保存地区に選定された南町通に面して立派な商家が軒を並べるが、ひときわ豪壮な商家が目を引く。阿波の特産藍の取引で財をなした藍商吉田家。屋号は佐直。大きな屋敷の裏は吉野川に接し、藍玉の運搬に使われた船着き場の様子が残る。
2016/09/17記
関西経済連発行広報誌「経済人」2015年10月号表紙に掲載。