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旧東海道 関宿の名菓 亀山 2014年 水彩 120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
関の菓子は街道筋の老舗。昔の旅人もこの菓子を食べて一休み、土産にしたかもしれない。 2015/05/06記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載
旧東海道関宿 伊藤本陣のあった中町の町並み 亀山
2014年 水彩 120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
天保年間、関宿には、たくさんの旅籠とは別に、大名や幕府の役人が泊る、本陣が2軒、脇本陣が2軒あった。右の大きな袖看板とのれんの家が、2軒の本陣の一つ伊藤本陣。2階の座敷の張り出し窓が立派。いまは電気屋さん。宿場には、宿場役人が大名行列を出迎えたり、見送ったりする「御馳走場」のあとも残っている。大名や武士がいなくなり、やがて旅も徒歩から鉄道や車に替わり、大いににぎわった町も、すたれていく。住んでいる人たちの生活も時代に押し流されたいへんだったろうに、百数十年前の町の姿をよく伝えられたものだと、連なる古い家の前を歩いていて思った。
2015/05/05記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載
旧東海道関宿 東追分 亀山
2014年 水彩 120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
宿場の入口を追分という。東追分(ひがしのおいわけ)。ここから西追分に向かって1.8kmに渡って宿場の家並みが続く。車や電車のなかった時代、天候に左右され、身の危険を感じながら旅をした往時の人びとがやっと宿場にたどり着いた、安堵と開放感が偲ばれる。左の鳥居は、伊勢神宮に向かう伊勢別街道の入口。ちょうど関宿が2つの街道の分岐点になっている。伊勢神宮で20年に一度行なわれる式年遷宮の際、宇治橋の鳥居も新しくされるが、古い鳥居が関まで運ばれてきて、ここに建てられるという。当時東海道を行き来する旅人はここから伊勢に向かって遥拝したそうだ。 2015/05/03記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載
旧東海道関宿 福蔵寺 亀山
2014年 水彩 120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。久留米藩の剣道指南役牧藤左衛門は遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。牧の妻は身重であったが、夫の仇を討つため旅に出た。ようやく関宿まで来たときには、行き倒れ同然であった。関の地蔵院の前にあった旅籠山田屋の主人と女将に助けられ、看病され、妻はそこで女の子を産んだ。彼女は間もなく子どもの将来を宿の夫婦に託して亡くなる。女の子は「小万」という名で、元気に育った。やがて小万は育ててくれた宿の夫婦から、両親のことを聞き、女の身ながら、母の志を継ぎ、亡き父の仇討ちをする決心をする。山田屋の主人は、彼女の気持ちを知り、亀山藩家老の加毛寛斎に頼んで、彼女に武芸を習わせた。天明3年、仇が亀山藩に現れることを知った小万は、馬子の姿を装って亀山城大手前の辻で待ち伏せし、ついに本壊をとげることができた。仇討ちによって名を高めた小万だが、その後も山田屋で育ててくれた夫婦に仕え、その後36歳でこの世を去ったという。関宿に残る烈女小万の物語。旧東海道から少し入った福蔵寺には小万の墓がある。2015/04/30記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載
旧東海道関宿 地蔵院本堂 亀山 2014年 水彩 120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。表紙には掲載できなかったが、東海道関宿のランドマーク的存在の地蔵院。奈良時代に流行した天然痘から人々を救うため、行基が地蔵菩薩を安置したのがはじまりという。日本で最も古いお地蔵さんといわれる。俗謡で「関の地蔵さんに振袖着せて、奈良の大仏婿にとる」というのがあるそうで、庶民の発想は大胆で過激でおもしろい。本堂と脇の愛染堂、および鐘楼が重要文化財に指定されている。
205/04/30記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年11月号表紙に掲載
旧東海道関宿 鶴屋脇本陣波多野家 亀山 2014年 水彩 120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
表紙には掲載できなかったが、鶴屋。先にここにアップした俗謡「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」に謳われた旅籠の一つ。今も建物が残っている。脇本陣を務めただけに、2階の大きな虫籠窓や入口横の出格子とその廂屋根の上の立派な千鳥破風。当時の風格を彷彿とさせる。西国大名の重役や幕府の役人、大坂あたりの大店の商人などが、大きな顔をしてのれんをくぐったんだろうな。
205/04/29記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年10月号表紙に掲載
旧東海道関宿 旅籠玉屋 亀山 2011年 水彩 120X165mm
関西経済連合会発行広報誌「経済人」の2014年10月号表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
宿場のほぼ中央にある立派な漆喰壁の玉屋は大旅籠の貫録。江戸天保年間(19世紀中頃)、関の宿には42軒の旅籠があったという。山里の集落にに42のホテルがあったと考えると、たいした賑わいである。俗謡に「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」とある。いま、玉屋は歴史資料館に、会津屋はそば屋になっている。
205/04/26記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年10月号表紙に掲載
関宿 新所の町並み 亀山 2008年 水彩 120X165mm
「経済人」の表紙“スケッチ紀行・歴史を歩く”10月は三重県の関宿を歩いたスケッチ。
古代三関の一つ鈴鹿関がこのあたりにおかれたのが関の地名の由来。東追分から西追分まで東西1.8kmの間に、今も200軒の江戸時代から明治時代に建てられた古民家が残る。旧東海道の宿場はことごとく時代とともに変化し、当時の街道筋の町のようすを今に残すのはもうこの関宿だけといってもよいだろう。関は旧東海道の日本橋から数えて47番目の宿場。伊勢神宮へ向かう伊勢別街道の分岐でもあり、古くから大いに栄えたという。宿場全体が重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
2015/04/25記
■関西経済連合会発行広報誌「経済人」2014年10月号表紙に掲載
YASUDA YASUYUKI
水彩画スケッチ紀行
中部北陸スケッチ旅行 02